蓮久寺

寛文元年7月(1661)の創立。 日蓮宗の寺院で、山号は光照山と称す。 開山は高運院日定上人、中興開基は一音院日暁上人によるもの。 山門は吉野門と呼ばれ、二代目吉野太夫による寄進の赤門である。

吉野太夫

本名:松田徳子【慶長11年3月3日 - 寛永20年8月25日(1606年4月10日 - 1643年10月7日) 】は六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。 また、六条三筋町「七人衆」の筆頭でもあった。夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれる。和歌・俳諧・舞・茶の湯・書など、知識人で、才色兼備の者の称号が太夫である。 夫は、灰屋紹益で、江戸時代前期の京都の豪商である。墓は上京区の立本寺に現存する。夫妻は、日乾上人よって法華経の信仰を持つようになった。 この信仰の証として、島原の蓮久寺と鷹峯の常照寺の二門を寄進された。吉野太夫が寄進された当時の門に揚げられていた棟板が今も現存しており、蓮久寺に寺宝とされている。